医師から私に父の余命宣告をされた日。
千葉県茂原市、公立長生病院2階 12時過ぎ、一般外来にて
血液、CT、尿他ほ検査を終えて、親父と二人、結果を聞きに診察室に入室する。
A医師(CTの肺を見ながら)「お父さん、結核やったことないですか。」
父「ないです」
数秒の時間が空いて
A医師「ウン・・・。」
また数秒の時間が空いて
A医師「お父さん、出てもらえますか」
診察室には僕一人が残ることになる。
CT画像の胸の部分を見せられる。
僕にはよくわからなかったが、
肺に白い花が無数に咲いているように見えた。
A医師「これ、全部癌細胞。もう手の打ちようがありません。」
僕「それってもって半年とか、そういう事ですか?」
A医師「無理無理。1,2か月」
僕「ぼ、ぼ、く、どうすればいいですか。」
A医師「やさしく、やさしくしてあげなさい。」
CTの映像(実際のものではありません)
この瞬間に、父の余命宣告を受けたと同時に、告知するしないも、
僕にゆだねられたことを覚る。
瞬時に「絶対に本人に言うまい」と決める。
僕「先生、本人に覚られない方法ないですか?」
A医師「検査でもしますか」
僕「はい、お願いします。」
A医師「本来検査って、生きるためのものなんだけどね。」
その場で検査室に電話をして検査の予定を聞く。
僕はとっさに思いついたカモフラージュの為の検査のためのメモを書く。
診察室からでて、不安がってる親父にでっち上げたメモを見せる。
僕「医者は親父に直接言うとビビるから僕に言ったみたい。5/17に検査で、結構つらいらしいぞ。」
親父がその場で僕のメモを見て納得した様子。
でっち上げた検査もメモ(単なる大腸検査だが、このメモで親父は納得してしまった)
長生病院は3階に食堂がある。
僕「親父、疲れた?。3階で少し休むか。」
11時前から検査を始めて、3時を過ぎていた。
親父を休ませている間、兄貴に電話する。
僕「今、大丈夫」
兄「いいよ」
僕「親父あと1,2か月で死んじゃうってよ」
兄「いきなりどうしたんだ」
今日のいきさつを話す。
涙が出始めてとまらない。
「オレ、先週親父怒鳴りつけちゃったんだよ」
「2月は取っ組み合いのケンカ、81歳の親父とやっちゃったよ」
・・・・・・・。
止まらなくなった。
兄「お前は悪くない。何もできないサラリーマンの俺の方が情けない。」
時間がかかると親父が怪訝に思うと思うので涙を拭いて親父の所に戻る。
僕「昼飯食べてないよね。永田いく?」
親父「よし、行こう。」
検査も終わり、息子もついてくれているので、親父の様子は安心した様であった。
僕の家は千葉県茂原市、親父に家は千葉県いすみ市、40キロ、車で約1時間の距離がある。
前年(2009年)9月、認知症の母を僕が引き取った。
親父もちょくちょくと僕の家に来て、母に逢い、泊まっていった。
親父の大好きなレストランが、「永田」正式には永田ドライブイン。
僕の家に来ると必ずその日のおすすめ(ほぼ刺身で中トロ、カンパチ、カツオ)などを頼む。
その日も。おすすめの刺身3品、日本酒を頼む。
その日親父はほとんど食べていなかったが、おすすめ、をすべて注文し日本酒。これが習慣になっていた。
親父を残してトイレに入る。
目が真っ赤。
どうしても、涙が止まらず、しょうがないので親父のいる席に戻る。
目が真っ赤なはずだが、親父は全く気が付かない。
何で泣いてるんだ、と聞かれたら答えに詰まる、と思っていたが、
もう親父には気づく体力も残ってないんだ、と思った。
僕は今まで、「人が泣く」っていうのはフェイクだと思っていた。
何で離婚するのに言い出した本人が泣くんだよ、
同情引きたいだけだろう、
と思ってテレビの離婚会見を見ていたものだった。
この時、人生で初めて泣くっていうのはフェイクではない、と言うのを実感したような気がする。
余命宣告を受けた翌朝の自撮り
その日、親父は僕の家に泊まり、翌日僕がおやじの車を運転し、いすみ市大原の実家(親父の家)に向かった。
兄も駆けつけてきた。
僕が大原の家に行ったのは半年ぶり以上。
部屋数も多く、庭も広い家に、親父一人で、少しの罪悪感にさいなまれながら暮らしていたんだ、
と思ったら泣けてきた。
恐らく、「孤独感」が癌の進行を早めたのではないだろうか。
前年2009年9月に、認知症が進んだ母親を、親父では面倒見切れなくなり、僕が引き取った。
母の認知症は、「寂しい、一人にしないでくれ」という症状で、施設に入れても
一晩中「浩司、浩司」と僕の事を呼ぶ。施設からは出て行ってください、と言われるか、
手足を拘束される。
施設に行っても僕が夜母の隣で寝る、という毎日だった。
2010年3月12日、僕の方が先に「急性心筋梗塞」になり1時間遅かったら、というレベルで死に損なった。
心臓の1/3を失った。
心筋梗塞の集中治療室(CCU)でカテーテルの管を右足裏から心臓の手前まで通し、
両手・両足を拘束され(動くとカテーテルの先が心臓を破るかもしれないから)ひたすら天井を見つめ、
「これで俺は終わりだ。」
「もし助かっても、前のように働けるはずがない」
「入院している間に俺の会社はつぶれる」
等絶望の淵にいる時に、看護師さんが
「お父さんが面会にお見えです。会いますか?」
直系親族、、本人が希望した人、は集中治療室で会えるようだった。
集中治療室に現れた親父の姿を見た瞬間、ブチ切れた。
「お袋押し付けやがって、こっちは終わりだぞ。バカヤロー」
看護師「井出さん。興奮しちゃダメ、心臓破れちゃう」
看護師「お父さん、興奮状態なので、出てってください。」
トボトボトと背を向けて出て行った親父の姿が忘れられない。
その3か月後、僕ではなく、親父が死んでいた。
「癌細胞ってバカだよな。自分も結局焼かれちゃうじゃない。」
親父の遺影を抱えながら、いすみ葬儀場から家に向かう車の中で遺骨を持つ兄につぶやいた。
最後まで、自分が死ぬ、自分が末期がんだ、と親父は知らないで死んでいった。
だるい日はあったが、激痛に襲われることもなかった。
心肺停止の2日前まで立って歩いていた。
2日前に「床や行きたい」っていうんで一緒に行った。
本人は「死ぬ」という事を全く考えずに死んでいったのだと思う。
余命宣告を受けてから「親父には絶対黙っていよう」と決断して、
完遂できたことが、最後の親孝行だったかもしれない。
親父の人生で、一番多くのビデオを見たのが最後の一か月だったのではないか。
6/4に心肺停止になり、何とか蘇生して、そのあとは意識も一切戻らず、人工呼吸器で生きているだけの状態だったが、
6/16に死亡するまでの12日間で、親父は死んじゃうんだ、っていう現実を認識する余裕を与えてくれた。
身体的痛みに極めて弱い母、に比べて、親父は強かった、
というか病気というものをしたことがなかった。
この人は永遠に生きているんだろう、と思えるくらい健康な人だった。
親父といて楽しかったな。
親父の後を追うように8か月後に母も死んだ。
母は親父が死んだのを何も分かっていないと思う。
「よくケンカする夫婦だな」と思っていたが、仲良し、だったのかもしれない。
終活っていうのは遺産相続を別にすれば、親族がするものではないか。
もう2度と、1秒たりとも、親父にもお袋にも会えない。
坊さんに莫大な金払っても、お盆やお彼岸に死んだ親父とお袋と逢えるわけがない。
唯一「時」が親父とお袋僕の手元に返してくれました。
これは、僕の日記(心筋梗塞発症後どんな生活が送れるのか、記録しているものです。)の
親父の末期がんについて書いたカテゴリーです。
イデブログ:カテゴリー「父の末期がん」
この文章は当初「イデブログ」に書いたものですが、何かの拍子に削除していたのを最近気が付きました。
7回忌に際し、書き直したものです。