「死」に立ち会ってるアメリカ・ニューヨークの救命救急士さんの「死にゆく人」を見る時のプレゼンです。
スポンサーリンク
[ad#ad-links]
僕は死に損なったとき(心筋梗塞で生死の境目「ゴールデンタイム:6時間」丁度で手術終わって助かりました)
激痛で「こりゃ死ぬな」とは思いましたが、それ以外の事は考える余裕なかったです。
「どうせならビッグマック食っておけばよかった」、とか、
「きれいなパンツはいておけばよかった」、とか、
「エロDVD捨てておけばよかった」とか、
考えないと思います。
「死んじゃうこと」は、本能的に避けたいもの、怖いもの、から、
具体的なのもの、に変わってくる体験でもあったですね。
「死んだことある人」っていないわけで、わからないうちに、人って死んでしまうのではないかな、
と今は思っています。
「わからないうち」というのは、自分は死ぬんだろうな、と思いながらも、人生を振り返ったり、後悔したり、とかしないうちに
(お迎えが来てしまう)、という事です。
*基本的に「引用」です。トップにある写真のリンク、もしくはココをクリックで全文表示されます。
私は死にゆく人を私の嘘で安心させるのは、私の仕事ではないと考えたのです。
それ以来、患者が瀕死の状態で、私たちにできることは何もないという状態の多くの事故に対応しましたが、
たいていの場合、彼らは真実に対して同じ反応をしました。安らぎと受け入れです。
私が彼の胸に除細動器のパッドを置いたとき、彼は私の目を見て言いました。
「自分の時間に自分勝手にならず、子どもたちや孫たちともったたくさんの時間を過ごせばよかった」。
差し迫る死に直面し、彼が欲したものは許しだったのです。
*キリスト教的な役になっていますが、日本語の間隔だと「許し」ではなく「後悔」だと思います。
それが私の記憶の中でも、彼らの愛した人の記憶の中であったとしても、
彼らは生き続けるのだと感じたいのです。愛した人、私、私の同僚、周りにいる誰であっても、その人の心の中、
頭の中では永遠なのだと感じたいのです。
数えられないほどの患者が、私の目を見て言いました。「私を覚えていてくれる?」。
*僕の死んでいった両親、親友、親族、は僕の心の中で生きています。
「僕が死んでも、僕、覚えておいてもらえるかな」という事ではないかな。
彼女は「人生でやりたいことがもっとたくさんあった」と言いました。
彼女はこの世に生きた証を残せていないと感じていたのです。私たちが話を続けるうち、
彼女は2人の養子を迎えた母であることがわかりました。彼女のおかげで、2人の子どもたちは養子にならなければ得られなかったであろうチャンスを手にし、
医療分野で医者として命を救う道に進むのです。
私は映画の中で見たものが真実だと信じていました。
人生最後の瞬間は、恐怖に満ちたものになるのだと信じていたのです。
しかし私の出した結論は、どのような状況であろうと、一般的に死の瞬間は安らぎと受け入れることで満ちているのです。
そして最後の瞬間に安らぎを与えてくれるものは、些細なこと、ある一瞬にあなたがこの世界にもたらした、小さなことなのです。