2年ぶりの救急車



今は「ヘルプマーク」というマークが東京福祉保健局から出されていて、東京都営地下鉄では、このマークを付けている人は優先的に席を譲ってあげましょう、運動が始まっています。

「ヘルプマーク」を東京都営地下鉄の巣鴨駅でもらってきました。

 

秋葉原へ

6/2,3の土日とプログラムを含むサーバと格闘してしまった。

5/25にパソコンが壊れ、客先の環境を再現するのにSQLServerからインストールしなおし。

環境作成:15時間  データ作成:5時間  プログラム:5時間

くらいのもんだろうか。

 

ひとえに「早く金払え」の為だ。

今日の得意先とは年間保守契約で50万円。

毎年4月末には払ってもらっている。

客先の担当が何かわけのわからない人になって、こちらの入金も遅れた。

こんなに根つめてプログラムいじったの2年前の心筋梗塞の手術以来だ。

今日6/4は、すでに目が覚めた時から心臓がバクバクしている。

不整脈が朝から起きているのだろう。

初めてだ。

「はやく金払え」「金払わすまで死んでも行ってやる。」

結局決死の思いで客先に行き、20時間かけて確認した部分を再確認し、

新しい担当に説明したら、原因は

(この担当のわけのわからない人が、)

「かな漢字変換」がよくわかってなかった。

&プログラム上での”新規”と”修正”のボタンを押し間違えていた、

だけだった。

何でこんなもんのために俺が命かけるんだ・・・余計不整脈が激しくなった。

この精神的ストレスが、心臓を余計苦しめたようだ。

都営三田線を巣鴨で降りる。

一気に日比谷→歩き→有楽町・国際展示フォーラム

→京葉線・東京駅

で帰るつもりだったが、とにかく横にならないと心臓が持たない。

秋葉原で降りたのは、

1.総武線で千葉経由、

2.有楽町・京葉線コース

3.秋葉の行きつけのネットカフェで横になって回復を待つ、

の3つの選択肢ができるから。

巣鴨で山手線に乗り替えたら、シルバーシートに高校生が3人座って馬鹿話をしている。

僕はシルバーシートの対象年齢ににも、病気も持ちにも、妊婦にも見えないのだろう。

「俺は心臓が3割無いが、お前らは脳ミソが3割無い。」

と声を出さずに叫ぶ。

さらに心臓がバクバクしだした。

秋葉原についた。

とてもネットカフェ行ったり、乗り換えたりできない。

 

秋葉原駅 5時5分過ぎに駅員さんに「心臓が苦しく我慢できない」という。

すぐ、車イスをもった若い人が来てくれて、 駅事務室にあるソファで横にならせてくれる。

さらに、ポカリスウェットも出してくれた。

ちょうど5時過ぎで秋葉原駅の司令塔のようなところなのだろう、 暗号のようなアナウンスがビンビンに飛びまくっている。

暴行を受ける職業No1は「駅の車掌さん・乗務員さん」との記事を数日前に読んだばかり。

こんなに一生懸命やっている人達が何で暴行を受けるのか、 &この切迫感があるから列車ダイヤが守られるのだと実感。

大変な職業だ。 っと、これだけいろいろ考えられるのは、不整脈おさまりつつある、と実感。

家に帰るのをギブアップ&自分の話を聞いてくれる人がいる安心感 &実際に横になり、心臓が楽になったあたりが理由だろう。

時計を見ると5時20分。たかだか15分で大分回復しているのを実感。

この時点で、心筋梗塞経験者として、”激痛”ではないのを実感する。

”激痛”ではない=狭窄(冠状動脈の太い部分が詰まる)ではないだろう。

今度狭窄したら死んじまうだろう、と思っていたので、かなり安心。

車イスで運んでくれた若い男性の上司の方が出てこられて、 「ダイヤを守らないといけないので相手できずに申し訳ない。

&このまま休んでいてもらってもいいし、救急車を呼んでもいいしどうしますか。」 との事。

僕は、「家に帰りつく自信がないので薬さえもらえれば大丈夫そうです。」 と答える。

ここは駅なので、そういう病院は紹介できない、との事。 選択肢として、救急車しか残らない。

救急車をお願いすると、症状を簡潔に聞いてくる。 井出浩司55歳&2年前に心筋梗塞発症&心臓が3割壊死&ステントという鉄が2本心臓に入っている 心臓がバクバクする状態で心筋梗塞の再発症ではなく不整脈ではないか、 と手短に告げる。 「では救急車に電話してきます」とデスクの電話に向かって同じ事を話してくれる。 救急隊 約5分で救急隊が到着。 東京消防庁のロゴの入った上着で白ヘルメットの救命救急士殿が3名現れる。 おそらくチーフだと思われる「救急救命士」殿がすごい。 先ほど駅員の方に説明したと同じ事を言うと、

「三井記念病院」とすぐ連絡を取る。 最小の言葉数で最大の情報を収集し、どの病院が適切か瞬時に判断する。 スゴイ。カッコイイ。生まれ変わったら救急士になろう、っと無宗教の僕は生まれ変わらない主義者だ。 「将来の夢は?」と聞かれたら「救命救急士」と言うことにしよう。 将来の夢まで考えられるようになった。かなり回復している。 僕とチーフだと思われる「救急救命士」殿との会話の間に脈拍計、心電図、血圧計 と次々つけていく。 1人の救急士殿は「AED」もしっかり持っている。 チーフ救命救急士殿の「三井記念病院受入れOK」との合図で、ソファから担架へ。 僕に「三井記念病院に約5分で到着します。」と告げてくれる。 ここまで、「苦しい」を初めて駅員さんに言ってから20分。 「日本はすごい国だ。」と自然に思えてくる。 秋葉の電気街口をAKBショップと反対側のラジオ会館口に止まっている救急車に 担架で運ばれていく。 2日あとなら、AKB選抜総選挙でAKBファンで埋め尽くされているだろう駅前。 5時半を過ぎているのでそれでもかなりの人。 整然とかつ瞬時に救急車まで人垣が分かれ、担架の道ができる。 「日本人はすごい人たちだ。」と自然に思えてくる、とともに 「あと二日後だったらAKBの研修生くらいには会えたか」と残念な気持ちも芽生える。 回復している。 この段階で「お迎えはこないな」と確信する。 少なくても第4回選抜総選挙の結果は見届けられる。 救急車の中で「親族の人がいれば連絡したほうがいいです。 病院に行くと携帯しばらく使えません。」と教えてくれる。 ”そういえば、あの時(心筋梗塞発症)もそうだったな”と思いながら、 兄に電話。つながらないので「東京で具合が悪くなり三井記念病院に」と伝言。 続いて、25年来の友人でFacebookFriendの静岡在住の大*さんに電話。 「今、救急車。色気出して東京きたら倒れた。

兄に三井記念病院といってくれ」 とお願いする。 大*とはこの半年、スカイプで毎日お話している。

彼も独身で自営業者。 この3日調子悪く、昨日兄の電話番号を教えておいたばかり。

「これは6/17からfacebookfriendが青森から来るので、

もしその前、6/15、16あたりに連絡付かなかったら兄貴に聞いてみてくれ」 とのつもりだったが、早速この連絡方法が機能してしまった。

救急車の中で、兄嫁と連絡がつく。 秋葉で倒れた&救急車中&三井記念病院 と数秒の間に話、相手も「わかりました」の一言で終わり。 三井記念病院 三井記念病院に電話が終わった瞬間に到着。 5分院内でついている。 救急処置室へ。 担当医1名と看護師1名がすぐ僕に張り付く。 救急士殿から状況は聞いているので、 まっ先に 「親族で心筋梗塞の人がいるか」と聞かれる。 「祖父です。」 すぐにエコーがあてられる。 これで狭窄しているかどうかが、ほとんどわかる。 と同時に、看護師が点滴の針を左腕に通す。 針を通すのが実にうまい。全く痛くない。 救急センターにいる看護師さんは選りすぐりのエースなんだと思う。 1か月前に検査で採血した時の針はメチャ痛かった。 さらに採血用の針が通される。全然痛くない。 エコーで、狭窄ではないだろう、とほぼ判断されたようだ。 気配が伝わってくる。 これで、とりあえずお迎えと手術はないか。 僕は「昨年11月に心臓が苦しいことが続き、心電図を1週間にわたりとり 不整脈であること」を告げる。 医師「不整脈にもいろいろある。期外収縮か?」 僕「違います。」 期外収縮だと、1カ月持たない、くらいの病気だ。 その間に血圧計が鳴る。 上が190だ。 針通し神の手の看護師:「最近の生活は」 僕:「昨日一昨日10時間ずつ位プログラム書いてました。」 針通し神の手の看護師:「調子は」 僕:「夕方になると心臓が苦しかった。30分ごとに苦しい波が来ました。 無視して仕事をし、夜は睡眠剤で寝ました。」 これで針通し神の手の看護師様の攻撃が始まる。 「自分の体が一番大事でしょ。」 「死んだら仕事できないでしょ」 攻撃の間に、血圧計が再度起動する。 148まで下がっている。 医師から、結果を分析する、安静にしているよう言われる。 急を要する処置は不要なんだ、とかなり安心する。

 

 

 

ここで時計を見ると6時20分。 早い。 オレ、ここで心筋梗塞発症していれば、3割も心臓失わないですんだ。 *心筋梗塞には、「ゴールデンタイム」というのがあり、発症して6時間後のこと。 ゴールデンタイムを超えると死亡率が極端に高まる。 僕は、下痢の子供&家庭内暴力を受けたおばさん、の次の処置で、結局手術は6時間後だった。 6時40分に別の医師が現れ 医師:「突発性心房細動。今日はこれで終わりです。帰りますか。」 僕:「はい。また起こるかもしれないので、薬ください。」

医師:「明日は休んでかならず専門医に行ってください。 一回分薬を出しましょう。」

1時間40分で、すべてが終わったことになる。

日本はすごい国だ、と改めて実感する。

処置室を出たら兄夫婦が幽霊にでもあったような顔をして僕を見た。